こぎんの歴史
「こぎん」は今から220年前、弘前を中心とした農村地帯に生まれたとされています。
当時の農民の衣装は自家製の麻。
木綿はなんとか出回っていたものの、百姓の手に届くものではなく、さらには百姓の綿布着用は統治者から厳禁されていました。
↑ 写真 1788年(天明5年)比良野貞彦が描いた「奧民図彙」にみる”刺しこぎん”
さらに、この自家製の麻布だって粗末にはできない貴重なもの。
麻は布にさせるまでに想像を超える苦労と営み、そして長い月日をかけてます。
そんなやっとで出来る麻布だからこそ、少しでも長持ちさせるために「刺し子」にすることが一般の習わしでした。
当初は補強のため麻糸を刺してきましたが、冬の寒さの厳しい津軽。
少しでも温かくしたいという願いから、どこからか綿を手に入れ、自分で紡いで糸にし、それで刺すことが一部の人によって行われはじめます。
しかし綿を手に入れることが容易でなかったこと、そして自ら紡いで糸にすることが簡単にできなかったことから、農村の隅々にまで普及することには至っていませんでした。
綿糸によるこぎん刺しが急速に普及することになったのは、紡績糸が出回り、割安に手に入れられるようなった明治中期。
農家の娘は、5~6才ともなれば例外なく家の女からこぎん刺しの手ほどきを受けました。
13~4才ともなれば、なかなかの刺し手となり、競い合って美しいこぎんを刺すことに傾注する風でした。
もともと刺すためのパターン図があるわけでも、手順書があるわけでもないこぎん。
手の込んだ柄を刺せるのはかしこい娘の象徴のようなもので、誰もが刺せないようなこぎんを刺せるようになることが、当時の若い娘の願いでもあったようです。
↑ 写真 弘前こぎん研究所が調査研究のうえで複製したパターン
そして、こぎんはその娘たちの嫁入り道具の一つでもありました。
ありふれたものや下手に刺したものを持っていけば、嫁そのものを低く見られるというほどでした。
このため他の上手な人に刺してもらってそれを嫁入り道具にする人がいたようでしたが、ナイショで行われていたようです。
貧しくても、薄暗いいろりの明かりを頼りに、暗闇の中で刺していく女たちのかしこさと指の感覚。こぎんはこうした中で花開きました。
元々こぎんは普段着であり、同時に労働着だったのですが、こぎん模様が進化し、美しさが開花するようになってからは、晴れ着としても珍重されるようになりました。祭礼や盆踊りの時などには見事なこぎんを着ることが、何事にも大きな誇りだったようです。
日本の優れた工芸品が藩主等の庇護により発達したものが多い中で、こぎんは全く違う道を歩み、自らの手で自らのために花を咲かせます。その花の中に鄙びた美しさがあるのは、その生い立ちがゆえ、とも言われています。
↑ 写真 左から 東こぎん 西こぎん 三縞こぎん
海運や近江商人が背負って持ってくる紡績糸はまだまだ値段の高いものでしたが、明治24年上野・青森間の鉄道が敷設されてからは諸物資が容易に入り込むようになり、それに伴い綿糸もたくさんの量が入り込むようになりました。
それがこぎんの急速な発展を促し、最盛期を迎える力となりました。
しかしながら、冬の厳しい寒さは綿布に対するあこがれをさらに強いものにさせます。
しかも藩政時代から綿布使用が禁止されていたことが、そのあこがれをますます助長させていました。
鉄道は、こうした綿布へのあこがれの中に、古着といった形で安く手に入るものも運んできました。
模様のついた安物を買っては二枚に貼り合わせる。
それでも温かい綿布を着られる満足感に浸っていたようです。
一方で弘前手織というものが藩政時代にありました。
当時の為政者が中央から篠綿(しのわた・しのまき・綿を棒状に巻いた物)を取り寄せ、武士の家庭に配給し、手紡糸を作って織らせ、自家用に当てさせていました。
そこに鉄道で紡績糸が大量に入ってくる時代になると、その綿布づくりは急速に発展していきます。
こぎんの発展は紡績糸の出回りが生んだものでしたが、弘前手織もまたこれと並行として発展を遂げていくのでした。
そしてあこがれの綿布がいよいよ農民のものとなっていったのでした。
綿布の普及により、こぎんは「農民の必需品」ではなくなりました。
こぎん模様は立派と自負し、晴れ着用として使ったとしても、それだけのことで、日々貧しさにあえぐ農民が必需品でもないこぎん刺を続けることは難しかったようです。
ピークとなる明治20年から25年を過ぎると、こぎん刺しは急速に衰えていきました。
家の女がこぎんを習うということが次第になくなり、わずかにこぎん刺が好きで止められないという一部の人だけが刺し続けるだけのものになりましたが、大正の終わりから昭和の初めでそれも影を潜めてます。
実用性の高い綿布が普及するにつれ、麻布の重要性が失われ、膨大な時間と手間をかけたあの麻布を作ることも難しくなりました。
そうなれば材料の麻の供給までもが絶たれる。
これがこぎん衰退の決定的な原因ともいわれています。
昭和7年民芸協会発行の「工芸14号」に柳宗悦が絶賛の言葉を載せたのを皮切りに、昭和10年頃にはこぎんが極めて優れた民芸品であることが認識されるようになりました。
ですがもうこの時代の農村ではどんなに賞賛され、勧奨されても、再びこぎんが復活されるようなことにはなりませんでした。
三縞こぎんが刺された五所川原市金木及び嘉瀬の年中行事「荒馬踊り」の時に古いこぎんを着て踊り回ることに僅かにこぎんのなごりがあるばかりでした。
柳宗悦がこぎんを書き記した同じ昭和7年、財団法人木村産業研究所が設立されます。
貧しい津軽の中に家内工業を興そうと主にホームスパン(毛織物)の指導をするための設置でした。
こぎんの価値が再認識されていく中、昭和12年、木村産業研究所自らがこぎんに着目し、調査と研究を始めていきます。
当時農村にまだ生き残っていたお年寄りの経験者を訪ね、昔行われていた頃の事情を聞きながら、その実技指導を受けました。
また史料として出来るだけたくさんのこぎんを集め、模様の分析を行い、構成の仕方を研究していきました。
その頃から次第に戦争による時局の悪化があり、一時研究は中止されるものの、戦後の昭和25年頃から研究は再開され、昭和35年には「弘前こぎん研究所」となりました。
↑ 写真 前川國男が手がけた最初の建築物 現 弘前こぎん研究所
「今も冬があり、今も女たちはあり、今も技が残る」
柳宗悦は、だからこそ何か新しい道で活かすべき、と発展的な考え方を当時唱えました。
柳氏のこぎんに対する思いを受け日本民芸協会の村岡景夫が現地に入り、調べ、小冊子を刊行したのが昭和18年。それまで「こぎん」についての研究は特にされていなかった中で画期的なものでした。
こんな中、農村に家内工業を導入しようと活動する木村産業研究所が昭和17年にそのなかに設立した「青森ホームスパン」の横島直道代表に、柳氏は「こぎん」の研究を勧めます。
このことをきっかけとして、横島代表は村岡氏の文献などに肉付けをするように、まだ生存している経験者に直接会っては当時の実情を覗ったり、技法についての実験を重ねながら、昔のこぎん模様250種類もの実物複製をとったり、模様構成についての実例を作ったりと地道な努力を重ね、昭和42年、こぎん研究の要となる冊子「こぎん」(青森民芸協会刊 横島直道著)を発刊します。
こうしてこぎんは弘前こぎん研究所により支えられて現代に生きていきます。
・・・・・・・
こんな具合に、とっても長くなってしまいました。
ですがこぎんが生み出した刺し子の幾何学模様は、どこまでも美しく、津軽の女性の美の意識が開花させたもの。
先日、ワタシもドローイングソフトで縦横の格子を作り、ひと目刺しては、3目空けて、5目刺してひと目空ける、とこぎんの「モドコ」という基本的な模様を構成する模様を作ってみましたが、頭の中にしっかりとしたイメージがなくてはとてもとても作れません。
あれを横に刺していく作業にはもう脱帽でした。
↑ こぎんのモドコ(モドコとは基礎になるパターン。「基(もと)っこ」→「モドコ」)
今年もアスパムでは、このこぎん刺しの模様をあしらったノートとダイアリーが発売されました。さらに今年の新商品は「クリアファイル」もあります。
チャンスがあったら手に取ってみてください。
ノート・ダイアリー 大210円・小150円
クリアファイル210円(税込)
byなおき
掲載されている内容は取材当時の情報です。メニュー、料金、営業日など変更になっている可能性がありますので、最新の情報は店舗等に直接お問合せください。