青森の素晴らしさは語り尽くせないほどありますが、
その魅力にかなりの影響を与えているのが
「南部」と「津軽」という二つの文化・歴史だと思います。
どれほどの方が立ち寄ったことがあるでしょう?
平内町と野辺地町の境界を少し浜に下りたところに、
旧津軽藩領と旧南部藩領を分ける藩境が残されています。
別名「四ツ森」と呼ばれるこの「藩境塚」。
底面の直径が10m高さ3.5m、ちょうど古墳のような土マンジュウが、
陸奥湾にそそぐ小流二本又川をはさんで2つずつ、
合わせて4つ並んでいます。
(↑陸奥湾に向かい小川の左側が旧津軽藩領。右側が旧南部藩領です。)
二つの藩境になんらかの印があることは考えてみれば至極当然のこと。
しかし、全国を旅した司馬遼太郎氏が『街道をゆくシリーズ3 陸奥のみち』の中で、
「私は生まれて初めて藩境というものを見た」
と記していることから、史跡としてはかなり貴重なのかもしれません。
吉田松陰の『西遊日記(九州旅行記)』によれば肥後・筑後の藩境は木柱と石柱であったそう。
司馬遼太郎氏は「藩境が肥後・筑後の木柱や石柱のようなものなら、廃藩置県のときに取り払われてしまったであろう。古墳でも築くように土を盛り上げたればこそ除去されずに遺ったのであろう。」と述べています。
そして、面白いのは「津軽家に領土を横領されたという歴史を持つ南部藩の場合、その境界を木柱や石柱のような簡便なもので済ませるというには、あまりにも思いが深刻だったに違いない。」という司馬遼太郎氏の史観。
(↑南部藩側の木柱。「従是東南盛岡領」とあります。)
一方、津軽藩については、
「・・・南部衆めが例によって執念深く妙なものをこしらえおった。というわけで対抗上やむを得ず対になる二つを築いたに相違ない。うんざりしているような感じが、津軽側の塚作りのぞんざいさにも表れているような気がした。」と述べています。
(↑津軽藩側の木柱。「従是西北津軽本次郎領分」。)
今ではどちらの塚もきれいに整備されていますが、かつては、南部藩側の二つがいかにも立派で杉や松が植えられていたのに対し、津軽藩側の二つは萱が生えているだけの粗末なつくりであったとか。
執念を抱く南部衆とうんざりしている津軽衆。
この地に立つと、司馬遼太郎さんが書いたこのくだりを思い出し、
旧南部藩出身の私もついつい笑ってしまいます。
かなり若かった頃、
「青森はひとつ。津軽だとか南部だとか、そんな概念自体をなくすべき。」と思いましたが、
津軽の魅力を知り、南部の魅力を再認識した今、
「南部と津軽があるから青森は奥が深いんだ」と思うようになりました。
津軽藩の文化と南部藩の文化。そして斗南藩の文化。
いつまでも大切にしたいと思います。
by義人
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