津軽海峡を渡る人と船。百年のこの機に見つめ直してきましたよ。
青森に住んでいると当たり前のように広がっている津軽海峡。
この津軽海峡の歴史は、海を渡るという感覚よりは、まるでちょっとそこまで川を渡ってきます的なまさに「移動と交流」の歴史。
青函連絡船百年を記念して青森県立郷土館で企画展が開催されているので、先日立ち寄ってきました。
古くは縄文の丸木舟が、中世には犾船が、近世になれば千石船が人と物を運び、文化までも運んでいきます。
青森の町はまさにこの人と物とが行き来をする歴史の中で生まれ、商いと町を広げ、文化を吸収しながら栄えていきます。
明治政府の北海道開拓は青函航路をますます太い動脈にさせ、就航する船舶も大型化していくと共に明治24(1891)年の東北本線上野青森間の開業もあって、いよいよ青森は「港湾都市」そして「商業都市」としての形が作られていきます。
こうした中、北海道と本州とを結ぶ大動脈に100年前の明治41(1908)年3月7日、青函連絡船は船出します。
当時の発着場所であった浜町桟橋は、現在の「聖徳公園」付近。
埋立てが進み、今では街の中ほどになっていますが、当時の桟橋にはイギリスで作られたタービン汽船の青函連絡船「比羅夫丸」は着岸できないため、沖に停泊し、はしけによる輸送がされ、浜町桟橋はこのはしけの行き来で賑わっていました。
港の整備も大正時代に入ると始まり、連絡船用岸壁が新設され、大正14年にはいよいよ貨車航送が開始されます。
就航以来貨物は、貨車→連絡ホーム→はしけ→連絡船→はしけ→連絡ホーム→貨車と6回もの積み替えが必要となり、雨や波などで貨物が汚れたりと破損の被害などもありました。
そこに貨物列車ごと船で運ぶ貨車航送が開始され、輸送量の増大はもちろん、経費低減、輸送時間の短縮と大きく前進を遂げることになります。
その後、太平洋戦争の空襲により青函連絡船は全滅、戦後の復旧。
海難史上第2の海難事故といわれる台風による連絡船の沈没。
この洞爺丸事故をきっかけに青函トンネルの建設が強く求められるようになっていきます。
昭和48年に利用者数のピークを迎えた青函連絡船ですが、その後は飛行機、カーフェリーによるトラック輸送に貨客を奪われ、利用者数が減少していきます。
そして、昭和63年3月13日
津軽海峡線の開業と同時に青函連絡船の終航式が行われ、津軽海峡を舞台にした80年の歴史に幕が下ります。
館内に展示されていた羊蹄丸の最後の航海日誌。
3月13日終航日のページには、こんな記載がありました。
The old soldier will never speak anything.
But the only thing he can do is just fading away.
(老兵は何も語らず。ただ消えるだけ。)
この日が来るのはわかっていた。
船に命を預け、乗員と荷物をこの海峡の荒波の中で守ってきた男たちに去来するさまざまな思い出。
そんな中で書かれた凝縮された2行。
写真パネルなども見ながら、津軽海峡と青森のことを少し見つめ直すことができました。
byなおき
<データ>
青森県立郷土館 青森市本町2-8-14 017-777-1585
企画展:青函連絡船なつかしの百年 海峡を渡る船と人
主催:青森県立郷土館 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
期間:2008年5月16日(金)~7月6日(日)
時間:9時~18時
観覧料:高校大学生150円 一般310円 小中学生無料
掲載されている内容は取材当時の情報です。メニュー、料金、営業日など変更になっている可能性がありますので、最新の情報は店舗等に直接お問合せください。