バラ焼の歴史1
バラ焼が誕生したのは戦後まもなく、と言われています。
誕生の地は十和田市のお隣「三沢市」でした。
十和田市と三沢市は1922年(大正11年)から鉄道で結ばれ、人とものの行き来が古くから盛んな地域でもあります。
↑ 写真は十和田観光電鉄三沢駅
当時の三沢は小さな集落が幾つかあるだけの地域。
そこに戦雲近づく昭和14年(1939年)、旧海軍が三沢飛行場の工事に着手し、開戦の2ヵ月前に完成します。
その後も施設の拡張を行い国内最大級の航空機格納庫(現存)なども建設していきます。
これらの工事に従事したのは朝鮮半島や大陸からの方々でした。
さらに戦時特例法のもとでこの飛行場と古間木駅(現三沢駅)までの鉄道専用線の敷設工事も始まり、現三沢市街地にはたくさんの工事に従事する方々の居住区ができていたといいます。
そんな三沢に終戦と共に占領軍(米軍)が進駐します。
三沢飛行場は接収され、米軍基地とするべく拡張工事が急ピッチで行われます。
そしてたくさんの米国軍人が三沢に結集します。
↑ 写真は三沢基地入口
この飛行場の大規模拡張は、基地建設に従事する労働者、基地要員等を全国各地から呼び集め、三沢はいっきに人口が激増します。
膨れあがった人口を賄うかのように、商店、飲食店などが米軍基地入口前に軒を並べ、自然発生的に商店街が形成され、さらにここに仕事を求め全国から人が流入してきます。
↑ 写真は三沢市内の狸小路の入口 ※本文とは直接関係ありません
昭和29年には航空自衛隊の駐屯が開始され、いよいよ三沢の町は覚しい発展を遂げていきます。
こうした中、進駐した米軍の軍人は「スミソニアンレート」による1ドルが360円。
基地の外で暮らし、アメリカから家財道具を運び込み、地元の女性をハウスキーパーとして雇い入れ、食事もパンと牛肉が並ぶアメリカにいるときのような暮らしだったようです。
米軍はこの地方で飼育されていた農耕用の牛、日本短角種等を調達し、軍人やその家族に牛肉を提供していました。
ですが食べる部位は赤身中心。
それ以外の内臓やバラ肉などの脂の多い部位は「払下げ」という形で三沢の市中に流れていったようです。
↑ 写真は三沢市の赤のれんのバラ焼 2人前
十和田・三沢を含めたこの地域では戦前から肉といえば、豚肉。
内臓は一部でレバが流通される程度。
牛バラ肉や内臓などは地域の人々には馴染みのないものでした。
ですが戦前から労働のため暮らしてきた方々らは違っていました。
肉食にかけては数百年の長い伝統をもつ方々。
肉食を禁じられていた日本人とは違い、食文化が脈々と受け継がれ、内臓など特有の臭いを消す下ごしらえの方法や調理の方法などが知恵として息づいていました。
↑ 写真 少し酸味のあるつけダレにくぐらせていただくのが赤のれん流 ウマい!
たくさんの人たちが集う町へと発展する三沢。
中には集まってきたたくさんの方々のために食事を出したりすることで生計を立てようとする人たちも増えてきました。
そして飛びついたのが、安く払い下げされるこの「牛バラ肉」でした。
食文化の中にあったあの味。
↑ 写真 この揉みダレの汁気がなくなってきて、肉やたまねぎにトロりと絡み始めたら出来上がり♪
牛肉に下味を付けて鉄板で焼くプルコギスタイル。
こぼれる肉汁とタレで肉と野菜を焼く料理方法。
でも当時手に入る野菜はたまねぎ程度。
こうして市中に流れたバラ肉とそこで暮らす人の持つ技との間に生まれた「バラ焼」は、肉の脂とそれに絡むタレの旨さ、そしてそれらを全て吸い込みながら甘さを出すたまねぎの旨さで三沢の人々を虜にし、大いに受け入れれられていきます。
↑ 写真 基地ゲート前に戦後から店を構えるバラ焼元祖店と言われる三沢の「赤のれん」
続きはまた。
もうしばらくおつきあいくださいね。
byなおき
<これまでの記事>
2008年10月16日 十和田バラ焼 1 プロローグ
<データ>
赤のれん
住所:青森県三沢市中央町2丁目1-23
電話:0176-53-3333
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