バラ焼の歴史2
三沢で生まれたバラ焼は、全国から集まったたくさんの人たちに大いに受け入れられ、日々の糧となり暮らしの活力となっていきました。
そして三沢で生まれたこのバラ焼は、同じ文化圏の十和田市へと流れていきます。
十和田市は現在の三沢駅である古間木駅とを結ぶ十和田鉄道が大正時代に開通されるなど、青森県南部の交通・経済・文化の中心。
周辺には広大な畑作、牧畜エリアが広がります。
十和田の中心にあったのは、陸軍の軍馬補充部でした。
まだまだ道路の整備が行き届かない中で馬は重要な輸送手段。
国内でも最大級の軍馬補充部への労役、商売などさまざまな経済行為は十和田の経済自体の中心と言っても過言でないほどでした。
そんな十和田にも戦後が訪れます。
経済の中心であるここ十和田にも物資を求め、職を求め、住居を求め多くの人たちが集まり、活況を呈したといいます。
そこに十和田市を支えてきた陸軍の軍馬補充部の解散があります。
作った馬が売れない、働く場所がない。
経済活動のど真ん中が空いてしまう。
そんな状況の中、この軍馬補充部の跡に残った大きな軍用地を開放して、幕末に新渡戸十次郎が立てた計画を踏襲し、官庁街区が整備を進めることになります。
多くの土建業、製材業に人が職を求め、軍馬補充部跡地は見る間に建築物で覆われていき、今の官庁街通りなども整備されていきます。
こうしたダイナミックな都市の勃興の中、稲生川にはバラックの屋台街なども生まれ、焼き鳥屋、カストリ屋などが盛況していきます。
そういった時代の中で「バラ焼」文化は十和田の人たちに受け入れられていきます。
十和田市東三番町にある「食道園」は、十和田で一番最初にバラ焼を出したお店だといいます。
三沢では昭和25年の朝鮮動乱により、前線支援基地として重要性が一段と増し、滑走路等の整備拡張が急速に行われていました。
食道園は基地の整備が進み、三沢が落ち着いてきた昭和30年代にいち早く十和田に移ります。
もともと馬肉が流通されていた十和田に牛バラは全く違和感のないものでした。
さらに戦前から十和田市相坂周辺ではめん羊の飼育が大規模に行われていたことから、羊肉に下味を付けて鉄板でいただくこと(源タレのルーツですね)も各家庭で行われていました。
そんな豚肉以外の肉もデフォルトだった地域に牛肉のバラ焼が入ると、その美味しさからブームとも言えるほどの浸透がされていきます。
お店のメニューに増え行くバラ焼。
こうして三沢で生まれたバラ焼が十和田で大きく花開き、今でも十和田市内で40軒を超えるお店で提供されていくのです。
食道園には三沢時代から使っていたという鉄板が今でも大切に保管されています。
米軍基地内で購入したというこの丸い鉄板は厚手でとても重いもの。
厚手の鉄板で全体に十分に火が通るようにしたようです。
既に取っ手ははずれてしまっていますが、三沢と十和田をバラ焼でつなぐ大切なものです。
十和田の人たちは、ご飯のおかずにバラ焼。酒のアテに、そして酒の〆にバラ焼とごはん。
地元を離れた人たちもふるさとに戻れば、挨拶代わりにまずはバラ焼。
もちろん自宅でも源タレで味付けし、鉄板でジュー♪
バラ焼はまさに十和田のソウルフードなんです。
byなおき
※ようやくお話が終わりました。
いよいよ次からはいろいろなお店をご紹介しますよ!
<これまでの記事>
2008年10月16日 十和田バラ焼 1 プロローグ
2008年10月27日 十和田バラ焼 2 三沢で生まれた「バラ焼」
<データ>
食道園
住所:十和田市東三番町1-43
TEL :0176-23-2566
営業:18時~24時
定休:不定休(電話でご確認くださいね)
バラ焼:700円(プラスご飯は200円 おいしいキムチ付)
掲載されている内容は取材当時の情報です。メニュー、料金、営業日など変更になっている可能性がありますので、最新の情報は店舗等に直接お問合せください。