今年最初の当ブログでも触れていますが、今年は太宰治の生誕100周年にあたります。
青森を舞台に著した小説としては「津軽」が最も知られており、その足跡をたどって青森を訪れてくれる人も少なくないと思います。
そんな旅でどうしても外せないのは太宰の生家「斜陽館」ですが、そこからほんの200mほど離れた場所に、終戦間際の7月から翌年の11月まで太宰が疎開し、住んでいたという「新座敷」があります。
この「新座敷」はもともと太宰の兄・文治さんの結婚を機に、大正11年、斜陽館から棟続きの形で建てられました。その後、太宰が亡くなった直後くらいに津島家は斜陽館を手放すこととなり、それに伴って文治さんの妻子の居宅とするため、曳家(ひきや)されて現在の位置に移されたのだそうです。
さて、”疎開の間住んでいた建物”と書きましたが、実は疎開に来る前に書かれた短編、「故郷」で既にこの建物は登場し、二つの部屋の描写がされています。
一つは、病に伏せった太宰の母と対面する部屋。”離れの十畳間”とあるように和室ですが、小説では大きいベッドが置かれていたとあります。
もう一つは洋間。こらえ切れなくなった太宰がそっと部屋を出て「今涙を流したらウソだ」と、ぐるぐる歩き回った部屋です。小説に書かれている椅子も絨毯も現在はありませんが、そのとき太宰が寝たソファはそのまま残っています。
左が離れの十畳間、右が洋間。小説ではソファに豹の敷物が敷かれていました
そんな小説の舞台となった部屋もあれば、そうではない、疎開時の太宰の純粋な生活の場となっていた部屋もあります。
玄関。太宰はどんな声をかけて外出を告げ、帰宅を知らせ、お客を迎えたのでしょう。
一家が居間として使っていた部屋。寝起きしていた部屋。寄せ木造りや鶯張りの廊下。
家族と日々どんな会話を交わし、何を喜び、何を心配しながら歩いたのでしょう。
そして最も気になる仕事部屋。
疎開している間に太宰は「パンドラの匣(はこ)」など、22の作品を手がけたといいます。
自ら”猫背”であったという太宰は、やっぱり少し背中を丸めて、ここに座って小説を書いていたのでしょうか?
…なんだかどんどん想像の翼は広がり、あっという間に時間が過ぎてしまいそうです。
これらはむしろ、小説に描かれていないからこそ、自由に想像を広げられる場所であるのかもしれません。
そしてもうひとつ、この建物の案内をしてくださる白川さんのお話もまた、嬉しい要素です。
ここで紹介してしまっては楽しみがなくなってしまいそうなので書きませんが、ますます太宰が身近に感じられること請け合いです。
…いえいえ、決して意地悪で書かないのではありませんよ(笑)
文人として活躍していた人間・太宰を感じられる場所、新座敷。
もちろん斜陽館も太宰を語るうえで見るべき場所ではありますが、それだけを見て帰るのはあまりに”もったいない”と思える、とても雰囲気のある場所です。
by くどぱん!
○「新座敷」見学
五所川原市金木町朝日山317-9
tel.0173-52-3063
案内料:500円
※新座敷に隣接する「京染の白川」が連絡先です。(店長白川公視さんのブログ)
掲載されている内容は取材当時の情報です。メニュー、料金、営業日など変更になっている可能性がありますので、最新の情報は店舗等に直接お問合せください。