「青い目の人形」・・・・・・
小説や映画に出てきそうなこのキーワードですが、かつてこの「青い目の人形」が日米友好の架け橋となったのをご存じでしょうか・・・。
日本人は1890年頃からカリフォルニア州に集団移民を始めたのですが、1900年を過ぎるあたりから移民が本格化し、それに伴い各地で先住者との軋轢を生じるようになりました。排日感情は次第に高まっていき、1913年には最も多くの移民が入植したカリフォルニア州が「外国人土地所有禁止法」を制定して外国人の土地所有と借地を制限し、1924年には米連邦議会が「新移民法(排日移民法)」を制定して日本人の移民を制限(実質的には禁止)しました。こうして、日本とアメリカの関係は最悪の状態に陥ったのでした。
日米間の緊張した状況をどうにかしたいと行動したのが、ギューリック博士でした。博士は、同志社大学の教授を務めるなどして20年以上も日本で暮らし、日本の事情に精通していました。博士は、市民レベルからの交流が重要だと考え、日米友好のため日本に人形を贈ろうと、全米に寄付を呼びかけました。こうした呼びかけに260万人ものアメリカ人がこたえ、その結果、1927年(昭和2)に約12,000体もの「友情の人形」を日本の各地へ贈呈したのです。
その「友情の人形」が、弘前に今もあります。
弘前学院外人宣教師館に飾られています。元々は愛光幼稚園に送られたものだそうで、昭和61年頃に幼稚園の物置で発見されたそうです。名前は、「エリザベス・ハットン」
贈られた人形はみな、パチパチと目を開閉し、おなかを押すと「ママー」と声を出したそうです。エリザベス・ハットンちゃんもそうかは確認ができませんでしたが、見た感じはそのようです。
アメリカからのすばらしい贈り物に対して、日本からも58体の日本人形が返礼としてアメリカに贈られたそうです。人形を贈られた学校の生徒たちが1銭ずつ出し合って、各道府県を代表する最高級の人形を作り贈呈したそうです。この58体は渡米し、全米各地で紹介され、絶賛を受けたといわれています。
しかしながら、第二次世界大戦開戦後の日本では、敵国の人形だとして破棄したり粗末な扱いをした例が多いようです。そのせいか、当初約12,000体もあった人形も、現在確認できるのは約330体ほどだそうです。
現時点で青森県内に残っているのは、おそらく9体。
(弘前市)弘前学院外人宣教師館、千年小学校、青柳小学校、致遠小学校、養生幼稚園、(平川市)竹館小学校、(つがる市)育成小学校、(八戸市)八戸市南郷歴史民俗資料館。そして、今年2010年3月には、南部町立南部小学校で新たに1体発見されています。もしかしたら、まだあるかもしれませんね。
人形には、人の思いがこもるものです。
この人形が辿った歴史に思いを馳せながら見てみると、日米の多くの人たちの平和を望む気持ちが伝わってきそうです。
All we are saying is give peace a chance!
by OAK
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