この季節の十和田湖や奥入瀬は1週間ごとに景色が変わり、地元の私でも驚きます。
そこには「初夏の十和田・奥入瀬」と一括りにしたくない美しさがあります。
5月の末頃、一斉に生まれる葉っぱたちは競い合うように萌黄色から黄緑色へ。
緑色の割合が次第に増し、7月には深みがかった濃い緑の葉へと成長していきます。今はまだ完全に開ききっていない葉っぱなので触ると柔らかさが残っていますが、緑の濃さが増すにしたがい葉も硬くなります。奥入瀬渓流は道路とほぼ同じ高さで流れているので、水の流れを感じエゾハルゼミの鳴き声をBGMに自然の中に身を置くと・・・いつもはエレベーターばかり探してしまう私ですが、奥入瀬ならいくらでも歩けてしまうのが不思議!
「あの厳しい冬の間にも芽吹きの準備がされてたんだなぁ」と思い、勇気も湧いてきます。
柔らかくて優しい新緑をバックに渓流の白い流れ、葉っぱにも負けない風情で生い茂る苔、そこに色鮮やかなツツジが映える「一瞬の美しさ」をとらえようと、朝早くから『三乱の流れ(さみだれのながれ)』付近に人が集まるのもこの季節。どれかひとつ欠けたとしても物足りないであろう、調和したその美しさを求め、多くの方がカメラ片手に足を運ぶのです。
乙女の像を制作した高村光太郎が初めてこの地を訪れたのも6月でした。
彫刻家であると同時に40年以上もの歳月をかけ、一人の女性への壮大な愛の詩集『智恵子抄』を書き上げたことなどで知られる詩人でもあります。光太郎はどんな小さな作品でも、完成すると真っ先に智恵子に見せたといいます。それを見て智恵子はいつもべた褒めしていたのだとか。智恵子亡きあと、制作意欲がしぼんでいたところへ、まるで追い打ちをかけるかのように空襲により大切なアトリエは作品もろとも焼けてしまいました。
親交のあった岩手県花巻の宮沢清六(宮沢賢治の弟)との縁を頼りに、東京を離れ岩手県花巻へ疎開。そのまま7年間、山の奥で農耕自炊の生活を続けながら智恵子の面影とともに暮らしていました。
その頃青森県では十和田国立公園指定15周年の記念碑建立計画が進んでいました。十和田湖を世の中に広めてくれた大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一三名の功績をたたえるためのものです。
「ありきたりではない人びとの心に響く作品を」という意気込みから発足した建設準備委員会は、お隣りの岩手県で暮らす光太郎への依頼を試みましたが、当初光太郎は引き受けませんでした。友人の佐藤春夫(詩人・小説家・文化勲章受章者)が十和田湖や奥入瀬の美しさを伝え「とりあえず気分転換に出かけてみませんか」と口添えをし、重い腰の光太郎の足をこの地に向かわせたのです。
制作の気力も無くし岩手の山の中に引きこもっていた光太郎の眼には、この季節の十和田湖や奥入瀬はどう映ったのでしょうか。エネルギー満ちあふれた自然美が、固く閉ざされていた光太郎の心を動かし、生涯最後の彫刻作品となった乙女の像制作へと取り掛かる意欲を湧き立たせたのでしょうか。
「みちのくの自然の厳しさにも負けずいつまでもそこに立っていてほしい」という願いを込め、ふくよかな像になったようです。向き合った像の背中の延長線が三角形になるところに、十和田湖の無限の美しさを表現したという光太郎は、二つの像の間にある空間に面白みがある、ともおっしゃっています。
この空間、ヒョウタンの形に見えませんか? 十和田湖や奥入瀬を広く世に紹介した大町桂月はお酒が好きで、いつもヒョウタンに入れながらこの辺りを歩いていたといいます。
ここに大町桂月を表したのでは? これは私が勝手に思っていることですが!
by tom5
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