世界文化遺産登録に向け、ますます盛り上がりを見せている三内丸山遺跡。紀元前約3,900年から紀元前約2,200年まで、およそ1,700年ものあいだ、ここで人々の生活が途切れなく営まれていたとされています。

ところで、縄文時代のムラはどのように成長したのか。ムラの最盛期はどんな様子だったのか。どうしてムラは衰退したのか。そんな疑問を抱いたことはありませんか?
それらのすべてを解き明かし、スッキリさせてくれるのが、2020年3月15日まで三内丸山遺跡センターで開催されている企画展「三内丸山ムラが一番おおきかったころ」です。

展示の担当者さんによると、三内丸山ムラが最盛期を迎えたのは紀元前3,100年~紀元前2,800年、縄文時代中期の中頃のこと。この時代には拠点集落だった三内丸山ムラのほか、周辺にもムラが密集して、いわば「集落の連合体」を形成していたそうです。多くの集落から人々が集まってくる三内丸山ムラは、とてもにぎやかだったと想像できます。

この企画展では、竪穴建物、盛土、交易、周辺地域との関わり、という4つの観点から当時の様子を伝えています。
とくに興味深く感じたのは、集落を構成する要素の移り変わりです。現代の日本の町は、住宅、ビル、公民館、学校、郵便局、商店などで構成されていますよね。それと同じように、縄文時代の集落にもさまざまな施設がありました。
三内丸山ムラの出現期には竪穴建物、捨て場、土坑墓などがあり、やがて拡大期に入ると道路が作られ、さらには大型掘立柱建物(六本柱)が出現し、最盛期には環状配石墓といったものまで作られるようになります。終焉期にはそれらの多くが消滅していくことになり、その変遷がパネルで視覚的にわかりやすく示されています。

展示されている土器や土偶は、すべて最盛期のものです。土偶の8割以上は盛土から出土しています。盛土というのは、大規模な集落にしかない特別な場所だそうです。盛土が1つあるだけでもすごいことなのに、三内丸山ムラには高さ2メートルもの盛土が3つもありました。三内丸山ムラが例外的に大規模な拠点集落だったことが、この点からもうかがえます。



あまり知られていない事実ですが、土偶というのは、ほぼすべて割れた状態で発掘されています。何らかの理由があって故意に割っていた、という見方もあるそうです。縄文時代の人々にとって、土偶を割ることは何か大切な意味をもった行為だったのかもしれません。

企画展に合わせて「さんまる速報展!2019」も開催されています。これまでに見つかっているものとは異なる特徴をもった遺構の発見など、最新の調査成果が紹介されているのでこちらも必見です。
企画展は、遺跡を含む常設展の入場料(大人410円、高校生・大学生200円、中学生以下は無料)で観覧できます。お土産には新商品の「手作り板状土偶クッキー」がおすすめです。

2020年2月15日(土)、16日(日)にはイベント盛りだくさんの「三内丸山縄文冬まつり」も開催されるのでこちらもぜひ。この2日間は入場無料でお得です。
by エムアイ
三内丸山遺跡センター | |
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場所 | 青森県青森市三内字丸山305 |
TEL | 017-766-8282 |
FAX | 017-766-2365 |
時間 | 9:00~17:00(入場は閉館の30分前まで) (GW中と6/1~9/30は18:00まで開館) 休館日:毎月第4月曜日(祝日の場合は翌日)、12/30~1/1 |
料金 | 一般410円、高校生・大学生200円、中学生以下無料 |
Webサイト | https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/ |
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