食文化の境界線を探して旧東海道492キロを歩いたことがある。麺類の薬味にするネギは東が白ネギ、西が青ネギ。小田原までは完全に白ネギ地帯だが箱根に至って白青が混在し、三島に下ると青ネギ一色になった。
肉うどんの肉は愛知県までは豚なのに、三重県に入ったら牛も混ざるようになり、鈴鹿峠を越えて滋賀県に至ると牛だけになった。
目には見えないけれど「いま食文化の境界線を越えたかな」と感じたとき、少し感動する。そんなことを繰り返してきた。
しかし旅の記憶をたどってみると、浮かんでくるのはうんとささやかな情景ばかりだ。和歌山県湯浅町では道ですれ違う小学生の誰もが私に「こんにちは」と挨拶してくれた。山形県東根市のいも煮会のテントの中では持ち寄った漬物自慢が賑やかだった。八戸市のせんべい店には暗いうちから近所の人々が集まって静かに語らっていた。そんな景観を「しあわせ」と言っては大げさだろうが、心にぽっと温もりが宿るのだ。やはり思い出は小さな「しあわせ」を散りばめた点描画に似ている。
これから青森県を旅する。「青森しあわせ紀行」を書こうと思う。
450円のしあわせ
2022年6月。
東京から新幹線に揺られて青森市に着いたのは夕暮れ時だった。宿泊先は青森駅前のホテル。旅装を解く間も惜しく、2枚のタオルだけを持って「青森センターホテル」に向かう。目当てはホテルの中の立ち寄り湯「まちなか温泉」だ。このホテルには過去に泊まったことがあるし、温泉を体験してもいる。それなのに、いやそれだからこそもう1度入りたかったのだ。
450円のチケットを買い浴室へのドアを開ける。広い。やたらと広い。一時期通っていた東京の銭湯の10倍はある。それ以上か。右手に洗い場。その左に内湯。泳げるほどの大きな湯船から湯気が立ち上っている。肩まで浸かって、やわらかな湯を肌で味わいながら目をつむる。顔がじんわりと汗ばんできた。目を開けると、内湯には私しかいない。
露天風呂も広い。先に入っていた若い男性と2人切りとは何という贅沢だろう。旅先では大きな風呂があるホテルを探すが、それがないときは銭湯に行く。これまで入った全国の銭湯で、ここまで大きな露天風呂を備えたところはなかった。
不思議だったのは、浴槽と洗い場の距離だ。その間にもう一つ湯船が作れそうなほど離れている。理由は知らないが、このスペースがあれば何人か床に横たわって「トド寝」をしても邪魔にはならないだろう。「トド寝」というのは、恐らく青森県でしか通じない言葉だ。客が浴室の床やあいたスペースに横になって休む姿が海獣の「トド」が寝ているように見えることから、そう呼ぶようになった。風呂場が広くなければできないワザだ。
東京の銭湯はピークだった1968年に2687軒あったが、内風呂が増えた影響で98年には半減し、今年4月の時点で500軒を切った。月に1~2軒のペースで廃業が続いているという。大人480円の料金は燃料高のせいで7月に500円に上がった。地価が高いから勢い広さも限られる。営業は夕方4時ごろからというところが多い。中にはピーク時になると、満員で入れない客が行列を作る「ロッカー待ち」が発生する銭湯もある。
青森県には銭湯が280軒余りもあり、人口10万人当たりの銭湯数は断トツの全国1位だ。しかもその8割が温泉銭湯という。青森県民にとっては当たり前なのだろうが、全国を見渡せば実に稀有なことだ。温泉だから沸かす燃料代がかからない。流しっぱなしなので早朝から深夜までの営業が可能になる。つまり青森の温泉銭湯は、その当初から脱炭素であり、サステナブル(持続可能)な存在だった。
湯上りの汗を拭きながらロビーを見渡すと玄関のところで何かを売っている。「総菜盛り合わせ」(200円)、「鶏肉とキクラゲ甘辛炒め」(300円)、「エビチリソース」(300円)、「焼き魚」(300円)。カウンターの女性が言った。「ホテルのレストランでつくったものです。11時に並べるのですが、総菜だけを買いに来る人もいます。
お風呂に入る人が買った総菜はカウンターで預かります。ロッカーに匂いがこもったら困るから」。高齢者や独り暮らしの人は、わざわざスーパーに行かなくても済むから助かるだろう。ロビーで総菜だけではなく調味料やちょっとした日用品、果ては古着まで売っているのは青森県の温泉銭湯特有の光景だ。
それにしてもいい湯だった。450円のしあわせ。
野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。コラムニスト。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。
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まちなか温泉 青森センターホテル | |
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場所 | 青森市古川1丁目10-9-1 |
TEL | (017)762-7500(代) |
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