幻の津軽そば
2023年1月27日(金)
弘前に来たので「津軽そば」を食べたくなった。このそばには思い出がある。
津軽そばという名を初めて知ったのは10数年前のことだった。ところが当時のネット事情では、どんなそばなのか皆目わからなかった。いろいろ調べていくうちに「日本中のそばを食べ歩いた」という人物がいることがわかった。その人を訪ねたのだが「たしかに津軽でそばを食べました。しかし、津軽そばを食べたという意識はなくて、どんなものかと聞かれても……」という答えだった。

それから何年か経ち、北海道の函館に津軽そばの店があるという情報を得た。「かね久山田」という店で、4代目の中村るみ子さんが切り盛りしている。函館の住宅街にある店に中村さんを訪ねた。
中村さんはいかにも女職人という風貌で、優しさの中に厳しさをたたえていた。その優しさに甘えて教えを乞うと包み隠さず手の内を明かしてくれた。
要約すると「大豆を水に漬けて柔らかくし、すり鉢でどろどろになるまで擦ります。呉汁です。それをつなぎにそば粉をこねて打つんです。つゆの出しは煮干しですね」
そう言いながら、煮干しを手のひらに広げて見せてくれた。煮干しと書いたが、記憶の中のアルバムには黒っぽい画像がぼんやりと浮かんでいる。焼き干しであったかもしれない。いずれにしても主役は昆布やカツオ節ではなかった。

初代が店を開いたのは大正7(1918)年のことだった。以来、代を継いで当時の手わざが守られてきた。中村さんの津軽そばを2度食べたが、つゆは澄んでいて煮干しの風味はあくまで上品だった。そばは柔らかくて小麦をつなぎにしたものとは明らかに違う味とのど越し。出合うまで歳月を要しただけに「これが津軽そばか」と、心の中でつぶやいた。
ここからは取材も進んで、次に訪れたのが青森市の「入〆(いりしめ)」。こちらは呉汁ではなく大豆の粉を使う。店名の由来を尋ねると、古い地図が登場した。戦前の遊郭の地図で、その中に「入〆」という妓楼があった。つまり、この店は妓楼の入〆の前で商っていた屋台店が起源で、ゆかりの妓楼の名で呼ばれていたのではなかろうか。では津軽そばの屋台とはどんなものだったのか。

その答えは弘前の「三忠食堂」にあった。ご主人と話しているうちに屋台時代に話柄が及んだ。そして屋台の名残とも言うべき蓋つきの釜と、つゆをいれる大きな徳利を見せてくれた。ガスがなかった時代、火力は炭か豆炭か練炭だったろう。大きな釜で水を沸騰させるには火力不足だ。そこで、あらかじめ茹でておいたそばを釜のお湯で温め、湯につけた徳利からつゆを注いていたらしいことがわかった。茹でたそばを「煮置き」と呼び、注文を聞いてから茹でるのを「煮立て」と呼ぶこともその折に教わった。

ということで久しぶりに三忠食堂にタクシーを走らせた。ところが午後6時前なのに、何かの都合で営業を終えていた。分店に電話したが「津軽そばはやっていません」との返事。津軽そばを食べたかったなあ。今回は幻に終わってしまった。

ホテルのそばに「甚平」という店があったので、同行のTさんと暖簾をくぐった。メニューに「津軽そば」とある。店の主人に聞いた。
「つなぎはなんですか?」
「ずんだです」
ずんだといえば仙台などの「ずんだ餅」に用いる枝豆のことだろう。
「ずんだ? 麺が緑色になりませんか」
「いえ、なりませんけど」
大豆の代わりに枝豆を使っているなら、特に食べなくてもよさそうだ。そこでほかのメニューを見ていたら「おかずセット」というものがあったので、注文した、

この店は正解だった。まず「けの汁」が出て来た。小ぶりの汁椀の中には丁寧に刻まれた根菜類がたっぷり入っていて、体が温まる。これに「おかずセット」が続いた。

「大鰐温泉もやしの子和え」「フキと身欠きニシン」「キノコの南蛮漬け」「サバの塩焼き2切れ」「タコ、マグロ、ブリ、サーモンの刺身盛り合わせ」と続いた。これで1500円だ。どれもプロの技がそれとなく施されていて美味。食べきれないほどだった。コスパ最高!

(後日「ずんだ」の誤解が発覚する→詳しくは次回)
津軽そばは次回にお預けになったが、津軽のおかずを堪能することができた。ホテルへの道をたどりながら、雪の中で少ししあわせになった。
野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。コラムニスト。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。
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津軽のおかず 旬の味 甚平 | |
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場所 | 弘前市駅前町16−3 |
TEL | 0172-32-1408 |
掲載されている内容は取材当時の情報です。メニュー、料金、営業日など変更になっている可能性がありますので、最新の情報は店舗等に直接お問合せください。