津軽そばとアップルパイ
2023年1月29日(日)
朝食はホテルで。
リンゴの黄身酢和えとリンゴの冷製スープが珍しくもあり、美味しくもあった。部屋の冷蔵庫を開けるとリンゴとナイフが入っていた。演出としてはなかなかなものと思ったが、そのままにしてチェックアウトした。
昼時になったので平川市内の「味の香園」に行く。そばが主体の飲食店だ。店の壁に額装された絵が掲げてあった。文章が添えられている。
「かつて津軽のそば屋はどこでも土間の隅に熱い湯をはった木桶を置き、そこで汁やそばを温めては熱熱のそばを出したらしい。さもなければ、けいどん箱と木桶を天秤棒でかついだ夜鷹そば屋で、雪の降る夜もソバイソバイといって売り歩いた。しかし今ではまぼろしのそばとなった」(句読点は筆者)。描かれた木桶、茹でたそばを入れた「けいどん箱」、つゆを入れる徳利は、かつて弘前の「三忠食堂」で見せてもらったものと同じものだ。絵には「逸泉」の号が添えられている。
こんな絵を見たら津軽そばをいただくほかはない。注文してほどなく津軽そばが運ばれてきた。澄んだおつゆに、そばが力を抜いたような穏やかな姿で沈んでいる。薬味はネギと刻みのりだけだ。
啜る。歯ごたえというものがほとんどなく、優しく喉を落ちて行く。かつて食べた津軽そばの記憶がよみがえる。絵の中の「雪の降る夜もソバイソバイといって売り歩いた」という言葉をかみしめた。津軽そばのもう一つのありがたみは、この温かさではないか。いまも店の外では雪が舞っている。暖房もままならなかった時代、凍えそうになる体はいつも温かいものを求めていたはずだ。そこに湯気を立てる津軽そば。丼を両手で包みながらそばを啜り、つゆを飲み干したことだろう。
津軽そばをいただいた後、弘前に移動した。誰かの「熱いコーヒーでも」という声で、弘前城東門前の「葡瑠満(ぶるまん)」に入った。設えは豪華なのだが、それをひけらかすのではなく、逆に抑えた雰囲気を醸している。
弘前が喫茶店とアップルパイの街であることは知っていたが、濃い目のコーヒーと一緒に食べる機会がなかった。メニューを見る。平仮名とカタカナ多用の書きっぷりだ。
「ふれんち(濃口・店主ノオ薦メ) 重厚ナ苦味ト、こく。マロヤカサヲ合セモツ。七百五十圓」と「自家製あっぷるぱい ホドヨイ甘味ト酸味ガ美味シイ、完熟ふじノこんぽおとヲ載セテ焼キマシタ。四百五十圓」をお願いした。
待つ間、窓の外を眺めていた。冬の青空を背に、黒々として立つ木々の枝に積もった雪が純白の輪郭線を描いている。水墨画だ。弘前城公園の方に目を転じれば、そんな水墨画が延々と続いている。
コーヒーとアップルパイが届いた。味わいはメニュー通り。上品だ。
ここにいるのは私といつものTさん、旧知のTさん、それに旅の後半をコーディネートしてくださった地元のSさんの4人だ。高齢者1人と中年3人。いれたてのコーヒーを啜りパイを頬張りながらぼそぼそと話し、ときどき小さく笑う。こんなのもなかなかいい。
東京では下町の一部や古書の街、神保町辺りを除いて喫茶店はほぼ絶滅した。駅前にあるのは全国チェーンのコーヒーショップばかりだ。だから地方都市に行って喫茶店を見つけると、ついつい入ってしまう。特にこの「葡瑠満」のような気品が漂う店には郷愁すら覚える。
脱線するが、私が東京で学生時代を送った昭和40年代後半は「純喫茶」全盛時代だった。どこの駅前にも数軒の純喫茶があって、いま思えばコーヒーとは思えないコーヒーを前に、何時間も粘る客が珍しくなかった。かねがね「純喫茶があるということは不純喫茶もあるということか。でも不純喫茶の看板は見たことがないな」と思っていたのだが、林芙美子の「放浪記」を読んでいて疑問が氷解した。戦前には接待の女性が付く喫茶店と、付かない喫茶店があり、後者を純喫茶と呼んだ。その名残だったのだ。
さて、その夜の宿は黒石市の温湯温泉。湯治場なので「客舎」という名の宿に滞在する湯治客は、温泉街の真ん中にある公衆浴場を利用する。見ていると夕闇が迫るころ、どこからともなくやって来た車が駐車場を埋め、人々が公衆浴場に吸い込まれていく。湯治客ではなく、地元の人々だ。温泉銭湯に行くのは青森県民にとってありふれた日常だろうが、他県の人間からすれば羨ましい情景だ。なんと贅沢な暮らしをしていることか。
私たちが宿を取ったのは内湯がある老舗の「飯塚旅館」だった。女将の飯塚幸子さんの語りが有名で、その夜も語りを存分に聞かせてもらったが、個人情報を多く含むので中身はヒミツ。
晩ご飯の膳には心のこもった品々が並んだ。そのうちの一品、茶碗蒸しの底から栗の甘露煮が出て来た。茶碗蒸しに銀杏ではなく栗の甘露煮が入るのは青森県と秋田県に固有の文化だ。
野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。コラムニスト。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。
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可否屋葡瑠満 | |
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場所 | 弘前市下白銀町17−39 |
TEL | 0172-35-9928 |
Webサイト | 可否屋葡瑠満 |
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