黒石ねぷた祭りとミカミさん
2023年7月30日(日)
(承前)黒石のねぷた師、今井秋行(ときゆき)さんとの出会いは本当に偶然だった。軽い気持ちでねぷた師のことを尋ねたつもりだったのに、ご本人がそうだったとは。
今井さんは5歳のとき、祖父と出かけた先でねぷた小屋に行き当たり、中の光景を目にしてねぷた絵に魅せられた。以来、子ども心に浮かぶ絵柄を描くようになり、21歳でプロになった。48歳になった今日までに描いたねぷたは80台を数える。今年、運行するねぷた36台のうち4台を今井さんが手がけた。「川中島の戦い」「「琴高仙人群仙之図」「三国志 祝融夫人勇戦之図」などだ。
今井さんは確かにプロではあるけれど、それだけで生活しているわけではない。
「黒石のねぷたは町内会で製作するものが多いので、青森の企業ねぶたに比べたら格段に予算が少ないのです。ですからねぷた師に入るお金も限られます。他の仕事もしないとやっていけません」
「ほかの仕事」というのが松の湯交流館館長の仕事なのだ。
この機会に、かねて疑問に思っていることを聞いてみた。
「ねぷたは終わった後、どうするんですか?」
「扇ねぷたは毎年絵を張り替えて使います。人形ねぷたは壊すか、東京辺りに行きます」
「ちょっと待ってください。東京の世田谷区桜新町に長谷川町子美術館があって、駅からそこに至る商店街をサザエさん通りといいます。毎年、そこで青森ねぶた祭りが開かれていますが……」
「そうなんです。黒石のねぷたが嫁入りしてるんです。今年も扇ねぷたにサザエさんの絵を4枚描きました」
黒石のねぷたは青森のねぶたに比べると縦横ともに小さい。そのサイズが東京の商店街の道路幅にぴったりなのだという。昨年の映像を見ると、小ぶりの人形ねぷたの前で大勢の跳人が「ラッセラー」の掛け声とともに跳ねている。サザエさんが描かれた扇ねぷたも続いて進む。弘前や黒石、平川の扇ねぷたは跳人を伴わないが、東京では融合しているのだ。
そんな話をしているうちに出陣式の時間になった。会場の御幸公園に行くと、その夜、運行するねぷたが勢ぞろいしていた。ほとんどが扇ねぷただが、人形ねぷたもある。
下の方を見ると、ねぷたの製作費用を寄付した企業や商店の名が記されている。クリニック、寺院、飲食店の名前も見え、それだけで黒石のねぷたが地域を挙げての祭りであることがわかる。
こみせ通りに戻る途中、黒石焼きそばの専門店を営むスズキさんに出会った。知り合って20年近くになる。髪は少し白くなったが、当時と少しも変わらない。
「野瀬さん、今晩はどうするんですか?」
「ミカミさんと一緒にねぷたを観ることになっています」
「ミカミさんが何か考えているみたい。おっと、これは秘密だった」
含みのある笑顔を残して店に入るスズキさんの背を見送り、コロナ禍前に会って以来4年ぶりでミカミさんと向き合った。知遇を得てから20年近くになる。青森と東京。遠く離れて生きているし、言葉を交わす機会も少ないけれど、心の距離は妙に近い。
「こっちです」
ミカミさんは挨拶もそこそこに、中町こみせ通りの雁木の下をずんずん進む。狭い道には祭り気分に溢れた人々が行き交い、なかなか追いつけない。視線の先でミカミさんがさっと一軒の古民家に入って行った。そこは普通の民家で、半信半疑ながら私もミカミさんに続いてその家の戸をくぐった。
「そこの階段から2階に上がってください」
急な階段を上ると広間になっていて、格子越しにこみせ通りを見下ろせる。そうなのだ。ミカミさんは知り合いの二階家を用意して、ねぷた見物の特等席を設(しつら)えてくれたのだ。これがスズキさんの言いかけた「秘密」だった。
畳の上のテーブルにコップやぐい飲みが並び、大きなクーラーボックスから缶ビールが出てきた。一端姿を消して戻った三上さんの両手には寿司桶があった。乾杯の後、寿司をつまむ。
「漁師から直接魚を買い付ける店があって、この寿司はそこのものです」
ミカミさんが言う通り、ネタは恐ろしく新鮮だ。海から遠い黒石で、こんな寿司が食べられるなんて。アジの淡い甘味や、ウニの濃厚なうま味を楽しみながら数語を交わしていると「ドーン」と花火が上がった。運行開始の合図だ。
やがて遠くから太鼓とお囃子の音が聞こえ始め、先頭のねぷたが現れた。引綱を握る20~30人のうちの半数は子どもだ。お囃子方の大半がまた子ども。小学校3,4年生から中学生といったところか。6月ごろから正調ねぷた囃子の講習会に通って身につけたものだという。
プログラムの団体名を見ると「美原町子供ねぷた会」「境松ひまわり子供会」「角田子供育成会」といった具合に「子供」の文字が目につく。黒石ねぷたの主役は子どもたちのようだ。
勇ましい戦絵が原色で描かれたねぷたが行く。扇ねぷたの最上部に設けられた高覧から「ヤーレヤーレヤー」の掛け声が響く。ハンドマイクを握った男衆の声の迫力は胴間声ともいうべきか。この声でないと地霊には届かないかもしれない。
2階にいる私たちの目の前を男衆の横顔がゆっくりと通り過ぎていく。それを目で追う。やがて見えてくるねぷたの見返りは美人画と決まっていて、表の戦絵とのコントラストが鮮やかだ。
格子の隙間からスマホを突き出し、次々にやってくるねぷたの写真を撮る。ベビーカーを押しながら引綱を握る若いお母さんがいる。長いバチで大きな太鼓を叩く女性の背中には赤ちゃんが。物心もつかないうちから、お囃子や掛け声を耳にして、黒石の子どもは育つのだ。
ねぷたの列が途切れたとき、階下のこみせ通りから掛け声が聞こえてきた。「ヤーレヤーレヤー」。数人の少年が一緒になって叫んでいる。彼らはこうしてふるさとのDNAを体内に取り込んでいるようだ。
こみせ通りの雁木を子どもたちの手になるねぷた灯篭が飾っている。
「ミカミさん、黒石のねぷたでは子どもたちが活躍していますね」
「そうですよ。小さいときからねぷたの絵を描きますからね。黒石では絵が描けるというのは強みなんです。私も小さいころから絵を描いています」。確かにミカミさんから届く年賀状に印刷された自作の絵は素人離れしている。そんな背景があったのか。
祭りの最終日は朝から「自由運行」。「家にいて、道行くねぷたを見ることができます」というミカミさんの声で、夏の日差しを受けた津軽の田園や果樹園を背景に、にぎやかな太鼓やお囃子に導かれてゆるゆると進むねぷたの姿が浮かんだ。
(了)
野瀬泰申(のせ・やすのぶ)
<略歴>
1951年、福岡県生まれ。食文化研究家。元日本経済新聞特任編集委員。著書に「天ぷらにソースをかけますか?」(ちくま文庫)、「食品サンプルの誕生」(同)、「文学ご馳走帖」(幻冬舎新書)など。
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